私家版マスメディア〜logo26のシニアの生き方/老婆の念仏

何が出てくるやら、柳は風にお任せ日誌、偶然必然探求エッセイ

万全の捻挫に感謝します!

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 子供の頃、ビタミンBの吸収が悪くて脚気や顔面神経痛になった。大人になってから、何だかやる気がなく、家事のことを考えるのもしんどいとき、アリナミンなどを服用すると、いつの間にか体が勝手に動いて家事をしているので毎度のことながら驚かされた。それで、今でもできるだけBを服用している。すると不思議にも、まるで家事が楽しいことででもあるかのように、よし、明日はキッチンから掃除始めようとか期待までしてしまう。(いつも成功するわけではない)

 今日はそれがうまくいって、家中の床掃除をまず新品のホウキで済ませた。長い柄のホウキを買うにもそれを持って帰るのが難儀だったので、1年間も買うことができなかった。(尤も掃除機のホースと同様、ホウキの柄を動かすのも手首などが痛い、これは思いの外だった)。

 こうして掃除もでき、爪もきれいに切りそろえて、さて執筆態勢に入ったが、例の如く助走が必要らしく、こんなことを書き始めたというわけだ。そうそう、床掃除について、触れておくべきこと。

 掃除体制の全てが整っても、肝心のJBの態勢が大抵はそれを阻止しようとしている。テーブル、その周り、机の下、紙が散乱。テーブルには清らかな紙が一部敷いてあって、そこでインシュリンを打ったり、食事をしたりする。それがすむとパンのカスは散らばったまま、鼻を拭いた紙は少し横に積み重なる、もしさらに清らかな紙が必要な場合は、その食べかすだらけの上にまた敷けばいいので、便利と言えば便利な方法である。

(余談に走るけれども、JBの潔癖症は2000年ごろに野良猫の世話をすると言い張って、実際はあたしがもちろん手を汚したのだけど、そのあと極端になった。彼が触ることを厭わないものは数えるほどしかない、どうしても触らなくてはならない場合は、紙を間に入れる。少数の聖なるものを触る前には徹底的に手を消毒するのだが、この区別の厳密さには今でも虚をつかれる、あたしは呆れ返る軽蔑する。皮膚も爪も破壊されるほどに洗う。洗って濡れた手は大量の紙で拭く) 

 あたしの持論では、いわゆるゴミ屋敷の住人の大部分は潔癖症だと思う。ものを買うまでは清らかなものが、幾ばくかののちには不潔な、捨てることすら不可能なものに変化するので、溜まっていくのはどうしようもないのだ、彼らには。

 同じ系統の人であるJBの療養室が、最近2019年11月12月変化。JBが変化。何となく紙の扱いに留意している、あたしもこれまでのようにつきまとって片付けないので、散乱がひどくなるはずのところ、横に紙用の袋、プラスチックゴミ袋と2つ並べて置いたのへ分けて入れている。厳密にするならば、1、リサイクルできる紙、2、使い切った汚い紙や食べ物の残り、3、野菜果物の残り、4、その他プラスチック、缶を主流としたリサイクルゴミの4種類のゴミ袋が並ぶべきところだ。(その他、ペットボトルはスーパーに、ガラス製品、衣類は捨てる場所が駐車場に備わっている。ただ金属製品、乾電池についてはまだ解明していない)

 あたしもお人好しのため、少しでも彼が自分から片付けようとするとしめた、よしよしとそれを手伝う。彼が最近掃除ロボットを買うと主張した時も、悪い意図はあたしにはお見通しだが、便利なものなのは知っているので買わせた。すると彼の聖なるものに入ったらしく、説明書を研究しているのもよしよし、のうちだ。

 何故、JBが変化するなどということが起こったか。そこには長い長い話がある。

 あたしの案は、冷蔵庫と電子レンジを療養室に置くというものだった。JBはこれに掃除ロボットで対抗してきた。何故なら、理由その1、JBは今年の夏にあたしの目的を叶えて介護認定された、痴呆がないので最も軽い介護度1であるが、自宅介護人の妻がそろそろあてにできないのでヘルパーの家事手伝いを派遣してもらおうと(もちろんあたしの希望であり、JBは性格的に他人を寄せ付けないのでなかなか申請すら実現できなかったのだが)そのための待ちリストにやっと入れてもらった。10週間ののちらしい。この算段がついたのが10月26日であった。(日本で言えば介護保険の地域包括センターのような組織があり、世話人がいる)

 その時、宇宙から余りにもツーカーの配剤が送られてきたのだった。そうでなければJBはいつまでも他人の手に反抗していただろう。ヘルパーに買い物をしてもらい、料理を作って冷蔵庫に保存、それを電子レンジで温める、掃除もしてもらう、それであたしはほとんど自適悠々の自由人になるのだ、こんな悪巧みが許されてもいい、あたしはもう十分尽くしたのだ、自分を許してもいいのだという証拠のように。 

 

 10月28日に、春頃だったろうか、何故だか知らないうちに高校の同級生の一人とメールを交わすようになったのだが、そのドイツびいき、音楽好きの未亡人の智子さんがあたしを訪ねてきてくれた。当時からの彼女の印象では、奥様になって幸せな一生を送る人、であったのだが、まさにその通りの恵まれた体験を積んできたらしい。スーツケースの半分は、海苔、胡麻塩、椎茸などあたしは食べ残しでいいからと頼んだのだが、たくさんのお土産で占められていたのを、ペンション(これはうちの隣)の玄関でもう店開きして袋に詰め替え、軽くしたスーツケースを持って3階の部屋に移動し、一頻りお喋りしてから、木の階段をぼつぼつ二人で降りてきた。

 これからの予定の話をしながら、途中の階段を一番下まで降りてきたと思って、先に床に下ろした左足が意外にも、もっと左の空間にグキっと曲がり、もう一段下まで体ごと落ちた。何と思う暇もない、もう床に座り込んでいた。

 絶望した。せっかくの客人をもてなすことができない、彼女一人であちこち行くなんて大変だろう、いくら旅慣れているとしても。軽い捻挫ではなさそうだった。

 智子さんは薬剤師で亡きご主人が医者という環境なので、荷物の中からすぐに湿布を取り出し貼ってくれた、何故か包帯まで持っていて巻いてくれた。最初の痛みが消えたので恐る恐る立ち上がると、移動は可能なようだった。

 恐るべし、聖霊の配慮。最適の人を捻挫とともに送ってもらったのだ、智子さんは即座に決心した。数日の予定を1週間に伸ばし、名所見物ではなくドイツの日常生活を体験すべくあたしの世話をする(JBも加えて)と。

 こうして魚心と水心が一致して貴重な日々がすぎた、同時におそらくJBにもあたしがいかにあてにならないかという体験でもあったはずだ。百の言葉で語るより効果があったはずだ。こんな手を編み出すとは、本当に「神」の智慧はいつも想定外だ。

 思い返してみると、智子さんは出発前の数ヶ月間、あれこれの思いがけない病気にかかり、旅行できるかまさに運任せのような状態が続いていたのだったが、それも彼女の健康をリセットする結果になったようなのだ。旅行中智子さんは万全の健康だった。一人の病がどんなに多方面に影響するか、他人にも意味を持つかという、人知を超えた運行の見本のようだ。合掌。

 

 そうそう、付け加えることがあった。高校の同級生と言っても、ゆっくり話すことはなかった二人だったので、智子さんはあたしの両親についてどんな人だったのと尋ねるのだった。何か気にかかることがあるせいだとは思いもせずに、あたしの幸せな親子関係を説明した。すると彼女が思い出話を始めた。智子さんはずっと以前、高校の同窓会名簿作りの世話もしていたので、一時期居場所不明だったあたしの住所を聞くために両親を訪ねたそうだ。すると父が厳しい顔で応対して、「娘は勘当したので住所もわからない、二度とこんなことでこないで欲しい」と言うので、何と怖い父親だろうと思って退散した。そんなイメージを持っていると言うのであたしはびっくり仰天、父は最も敬愛する優しく思いやりのある人だった、あたしが再婚してドイツで暮らしていた頃も怒ってなどいなかった。

「それはきっと、あれよ、私の住所が名簿に載ったりすると前夫が知るかもしれないのを恐れたから、意図的にそんな振る舞いをしたのだと思う」

 これには智子さんがびっくり仰天した。

 もちろん、そこらへんの詳しい理由は黙っていた、恥ずべきあたしの過去がある。

 智子さんは翌日散歩に出た時、野草で小さな花束を作ってきた。そして父の写真に供えた。恐ろしい人と長い間思っててごめんなさいと手を合わせた。

 そうか、父の心も智子さんに繋がっていたのか。合掌。