私家版マスメディア〜logo26のシニアの生き方/老婆の念仏

何が出てくるやら、柳は風にお任せ日誌、偶然必然探求エッセイ

数え上げ

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 どう考えても1年前のことだ。今年は2019年の令和元年という節目の年で去年は2018年まだ平成30年だったのだ。

 1年前のこの時期、十日後くらいに冬至を控えてただでさえ薄暗い曇り空に夕焼けもささずに夜の帳が降りる。四方の小山は近くに迫っているのでたちまちに真っ暗になる、その暗い森の中をタクシーで走った。空に木々の影すら見えない。目が見えなくなったのかとふとゾッとする。と、陽気な光が不意に遠くに見える。その嬉しさ。人の世界があるのだ、クリスマスまで毎週末開かれるこの村の名物の夜市である。

 階段を降りて、無人の家に着くと、左手の庭の上部には樅の大木に半分覆われた、夜空がある。おお、何とその狭い隙間に輝く半月がちょうど引っかかっていた。あたしを見下ろしている、何と言ってもそうだ、ありがとうお月さん。

 そんな去年だったが、今年も変わりなく、紅葉ではなく黄葉の楽しい眺めも、枯れ木が増えるにつれこれまでの邪魔な葉っぱがなくなりナーエ川の様子が様々に見えるのも、その向こうに絵本のようにディーゼル列車が走っていくのも、とりあえずは気候変動の影響も目立たぬ同じさである。

 

 あの頃、7週間の入院中に夫のJBのステント、及ペースメーカー手術がすみ、クリスマスまでには退院帰宅すると騒いでいて、実際にそれを貫徹したのだった。

 

 新年になりすぐに腰痛となり、明るい未来がおじゃんになり、

1つ、JBの毒舌のための毒舌があたしを傷つけ始めた。

2つ、日本からの荷物を家の上下に配置し、あたしの自室ができて、念願の別居形式が実現した。

3つ、新しく知人が与えられる。同級生智子さんと黒服女史ドーラ、一方カフェ女主人ナディアとは縁が切れる。

4つ、腰痛のため身動き取れず、専門医探し、健康保険を使う、介護認定申請、身障者申請などの手続きが遅々として進まない。大いなる悩みであった。

5つ、8月になり在宅介護センターとコンタクトが取れ、マインツ大学病院入院というところまで進んだ。

6つ、あたしの不整脈マインツ扱いとなり薬無しでは危ないと言われる。また関節問題が診察され、リハビリを有料だが受けることになり手首にプロテクターをもらう。74歳になり年寄り臭くしようとする。

7つ、JB怒涛の入院騒動始まる。

 契機は8/23心臓弁膜チタン化手術。退院後すぐに呼吸困難となり救済病院入院、9/1に突如歩行可能となり、味覚異常亢進が起こる。この始まりはどうも、院内ラジオでミサを聞いた時らしい。

 それでも退院、翌々日癲癇的発話不能となり、9/3脳神経科へ収容されるも原因無しで退院、相変わらず味覚と認識昂進甚だしく全能感にみなぎり、快楽殺人心理に触れる発言あり、その時は笑っていた私だったが、有名な食人映画ハンニバルが思い出され、生きながら食べられるという妄想に取り憑かれたのであった。その際にJBが堪能する様子が連想され、身震いして部屋に鍵をかけるしかなかった。

 今思えば、この妄想こそ現在の別居状態へと続く重要な出来事であった。あたしの責任というのか、天から降ってきた賜物と言おうか。

 

 9/6癲癇的発作甚だしくなり、死を間近と思う騒動。三度目の救急車要請で二つの脳神経科を経て、閉鎖病棟行きとなる。JBはほとんど発話不能であったので、あたしの説明と訴えと恐怖が、JBの発言であると誤解されたのである。どうもそうらしい。

 界隈で有名なアルザイキチガイ病院へ、ただしそこでの診察ではただの脳神経科で良いと言われる。

 例の如く早速院内感染するも回復し、検査やテストをするが特に症状を引き起こすような病因が見つからない、それどころが急に癲癇発作がなくなり、元気に歩き同室の患者の世話をするという、おそらく元気に見せるための作戦か? 味覚昂進はあるので、原因はいわゆる気質的なものである、つまり狂気であると見る方向へ治療が、あるいは治療不可能が色濃くなる一方、あたしの同居不安は相変わらずで医者はこれも大いに考慮するようだった。  

 つなぎとしてキチガイ科へ転院させる、つまり退院後は家に帰らずホームに入れる/閉じ込めるということが承知された。

 JBに関わる複数の医者は、開口一番「奥さんを食べたいですか」と尋ねた、そんなふうにいきなり尋ねることで本音が聞けるという方法であるらしかった。JBはそれには引っかからず、テストの結果せいぜい鬱だということが結論づけられた。

 当然のことに、JBはあたしが自分をキチガイ病院に閉じ込めたとみなした。それで物凄く怒り、憎しみに満ちていた。ただ、ここでそれを爆発させあたしを怖がらせると不利だと思ったのだろう、要はともかくここから退院せねば、そうせねば離婚の手続きもできない、と決定的な時期に口にした。理性はあったのだ。

 彼の方から離婚をいう、それこそ万全だった。その気にさせることがあたしにとって受け入れられる事態だった、離婚する気はなかったのだが。簡単に離婚などしない、もっとややこしくなる。もちろんそれでもいいけれども。ややこしくなるのは事実だ。 

 そんなありきたりの世間的な思惑のせいではなく、以前からの、ドイツ移住を決める前から気づいていた、奇妙な恐れがあたしの中に消えずにあった、まだあったのだ、彼の1月以来の憎悪、それからこの時に発生したさらなる憎悪にもかかわらず。

 

8つ、9月末に夫婦で協力体制をとり無理を言って退院、JBは自分からホテルに3泊した。

 その時に末息子が孫とドイツに来たのである、そんなこととはあまり知らされずに。JBには息子が大切であり尊敬もしていたので、ホテルから自宅に戻ってみんなで暮らした。昔懐かしいミュンヘンへみんなで旅行した。それは昔みんなで(孫はいなかったが)イタリア旅行した灼熱の夏、あたしと息子を病気にしてしまったほどのJBの無駄な頑固さを思い出させた。あたしたちは恨んでいた。

 帰りに息子は父親のいつもの他人批判にかっとなり切れて怒鳴り散らし、家には帰らずそのまま日本に発ってしまったのだった。「あんたはクソだ、みんなをクソだという奴はクソだ」可哀想に涙をボロボロ流しながら、大の大人が。あたしはこんなことの原因でありこんなことを引き起こしたJBを許してはならないのだ。

 

9つ、JBに離婚を言わせるまでのこと。その後の変化の次第

 9月初めにアルザイ病院に入ってから、主に携帯のSMSであたしたちは言い合いをした。際限もなく。あたしの別れたいのに別れられないためのあれこれの言い逃れ、JBの方は一人にされると困るので、これまたあたしを愛してるなどという状況ではないのに離せない、そんな二人の地獄の言い合いであったのだけれど、ついにそのうちに、JBがもううんざりだ、離婚すると言った。あたしはやはりほっとした。そこに行って欲しかったのも確かなのだ。その後考え出したらまた堂々巡りだが。

 JBは、離婚を覚悟してから憑物が落ちたかのようで、理性が戻ったかのようだった。

 

 9/26 忘れもしない、この日初めてのセラピーがあった、あたしのためだ。ドーラがあたしに告げた共依存という言葉にずっと煩わせられていたが、認めたくなかったのだが、1時間喋った後ギーホフ医師が「ご主人のことしか話しませんね」と言ったのが心に残っていた。

 バス停で待っている時、急にはっきりした。そうだあたしは共依存なんだ。病気であり洗脳されていたのだ、罪の意識に、と現実を認識できた。そんな明白さは神の言葉である。真実なのだ。それから、急に妙な不安心配恐れを抱かなくなったような気がする。そんなふうに心が流れていかない。その後も何か話すべき神秘な出来事が起こるので毎回セラピストに喋り倒した。そんなふうに「神」を引き合いにして生きているあたしが正常かどうか、それを専門家に見ていてもらいたいのである。

 

 この間に訪問客があった。3組。そして4組目が捻挫関係である。

 智子さんとの万全の捻挫への感謝記録は10月末から10日間のことである。

 捻挫事故によって、確かにある程度JBにも、あたしの脆さが、老化が、その自分への意味がわかったと思うが、その後さらに彼の態度の変化を促すような恵がマイナスプラスの波に洗われて現れていたのである。

 少しでも時間の余裕ができると、懸案のあたしのビザ更新のために(それは11月29日の予約日であった)外国人の夫の妻の呼び寄せについて、という難民用の法律を理解しようとネットをググっていた、という話の続きはもう前々章で書いたように、意外にもあたしの自分への見方がコロリと変化し、大いに低下した、その相対的な動きとして、もちろんJBが軽蔑すべき人ではなく、敬愛すべき人に変化したのであった。

 これは典型的な馬鹿みたいな話だが、不思議な話である。JBにも感じられている、あたしの変化が。あたしは動じなくなっている、彼のどんな態度にも。

 JBのパソコンを壊したというマイナスから自分こそ責任者だったというプラスの波へ。正常な意識の動きとは思えないとはしても、JBの態度の変化、あるいは夫婦の関係変化にほとんど結論的に寄与したと思われるのでここにまとめておこう。

 

 しかしなお二人の態度に基本的に影響を与えたのは、黒服女史ドーラであろう。

  ウクライナ人のナディアは、原因不明の無視行動であたしを辟易させ、彼女の店から撤退させたのだが、同時期に、ドーラが現れ、偶然にお茶を飲んだり語り合ってミニコンサートに行くようになった。そのいずれにも邪魔をするのが定番のJBである。何度でも電話してくる、DVの定番、所有物監視行動である。

 自分が体験したことは、誰かが隠そうとしてもすぐにお見通しである。

 ドーラは自分がしたように、もう絶対に改善するはずもない壊れた人間から離れるように、別居するようにとあたしを説得する。一緒にいることであたしが壊れるのはもちろん、彼も一層自立した一人前の人間から遠ざかる。

 彼女の言葉はとても厳しくてあたしは呆然とするのであった。JBの病状が詐称であろうなんて、とんでもないことに思われたし、第一、あたしはすでに日本で決意したのだ、神の前に、神の愛にかけてJBを立派に死なせると。負けないという背景があった。

 

 そしてこれは数日前に起こったのだが、ドーラは改めてあたしを不誠実な嘘つき、上部を飾り利益をくすねるためには人を破壊して恬としている、あるいはとんでもない弱虫であり嘘を平気でつくと、揶揄した。

 しかし、彼女自身の現在の体調や孤独や批判を見ていると、真っ直ぐに生き抜いたため、二人の夫から殺されかけたり、PTSDのため自殺を何度も試みたりした後、本当に霊気や修行をし、臨死体験など不思議なことも経験した人物とは思えないようなテイタラクであった。

 あたしはむしろ、彼女があたしに救いを求めているように感じる。その逆ではなく。彼女はそう思っているのだが。あたしは彼女を救うためにいるのだとあたしは思う。たとえ双方からそうであるとしても。

  変な表現だが助け合い競争のような二人の態度である。他にもおそらくドーラにはあたしをもっと近づけたいという何か別の魂胆があるような気もする、それは不愉快だし気味が悪い。

 それにしても、あたしはお人好しの莫迦さ加減で、次第にJBにドーラの考えを注進し、我々は心理的病気状態なので別れねばならない、しかし別れるにはあたしには心配が残ると訴えたのである。ヘルパーやホームやあるいは別の女が必要だと。

 そのせいかあらぬか、すでに現に、あるいはあたしがガンとして受け付けないので、一人で病院へ行き、ナディアのケーキを食べに行き、相変わらず腰痛で唸りながら、できることはするようになった。電話をかけて来なくなった。

 あたしは着々と介護体制に他人を引き入れる策を進めた、たとえば、彼の病室に冷蔵庫と電子レンジを買おうと言った。あるいは日に2回無理してでも(どうせ彼には運動が必要なのだ)2回階段をのぼりキッチンに来て食事をすること。これはまだ実行されていないが、あたしが熱いものを階段で運ぶのは事実とても危険だった。嘘ではない、絶えずひやっとする目に遭っているし、捻挫の数日後また、階段を滑り落ち持っていた全てを壊してしまった。運ぶために火を消し忘れることが往々にしてあるのも強調しておく。

 

 これより話が遡るし、すでに書いてもいることなのだが、ことここに至った原因なので触れておくと、10月半ばごろ、ドーラと偶然に出会った時あたしの滞在許可タイトルの話になった。現在の夫と同居している限りの許可で3年という期限つきである。これを不審に思ったドーラに付き添われて役所に行き、彼女の言動に惑わされた職員が予約日をくれた、ただ、ドーラはその理由に、あたしたちが別居していると強調したのであった。

  それから流石のあたしもドーラとの連絡を絶った。ドーラは何を意図しているのか、あたしをドイツから追い出すつもりか。それに職員が新たにどう理解したかも定かでなかった。おまけにドーラは、こんな世話焼きをすれがお金になるはず、とか手引きしたから後は自分で必要なことをするようにとも言った。それであたしは、彼女のもう一つの言葉、書類書きを手伝う、というのも無視した。むしろJBをあてにした。検討した結果、どうも職員はJBを外国人だと感じている節があった。ドイツ人向けの別な書類がネット上には存在していた。

 こうして夫婦で予約日に出かけた。この間に、ドーラにはミュンヘンから一度電話したのみで連絡は全くしなかった。彼女が苦しんでいるのを感じたがどうしようがあろう。彼女の偏屈と思い込みがそうさせるのだから。

 ところで変なことに、彼女には公平さと共感もあった。変な人ではある。そういえばあたしの自室を見て、遊び半分の人だと評したっけ。そんなことは言われたことはない、今、自由な人間になりつつあるのだ。ドーラはあたしをとても誤解している。失礼極まりない。

 さて、当日だが、職員のポン氏は、「で、別れたのですか、友人は別居のことを強調してましたが」と開口一番。あたしはびっくり仰天だ。そうか彼はそこを重要視して聞いたのだ。30年前のデータをミュンヘンに要請したが届いてないと。それではJBが純正ドイツ人だということも不確かなのか。

 あたしは必死で嘘をついた。彼女がどの程度言ったのよかくわかりませんでした、あたしには。夫婦にはいろいろありますから、別れません、一緒に暮らしてますとも。JBと二人揃ってきたので、彼は

「そうなら、誤解だったということで今日は無駄足でしたね、2年後にまたより良いものを」

「あの、夫がドイツ人だということは確信してますか?」

「そうですよ、ドイツ人の妻の滞在許可、ということで扱っています」

「では、どうしても今日永住許可はダメなのですね、昔7年共同生活していたのに」「そうです、それは計算に入らないのです」

 

 やっぱりドーラの策では今頃もう追放されていて今後の生活の汚点となったことだろう。たとえあたしとしては帰国しても何ら差し支えないとしても。別居しているが古い結婚なので永住許可に切り替えてもらうというドーラの魂胆は、薄氷を踏むように危険極まりなかったのは確かである。彼女の試みの危険が見抜けなかったのは、年寄りで、言葉の理解が完全でなかったからである。あたしは今回ラッキーだったとみなすべきだ。

 

10、ドーラ関係追加。

 迷いに迷った末、このままでは失礼だろうと、日本人的な思惑から、最近訪ねて言ったところ、マリファナ治療でこの1週間改善したと言った、それほど最悪だったらしい。あたしを探し回ったりしたと。おかしくない? 過去の自分とこの年寄りを重ね合わせているのか?彼女のいわゆるPTSDの症状は、鬱と攻撃性、日光恐怖、人間嫌悪、身体中の痛み、不眠である。

 ところでその少し前、あたしはあっと気がついて、彼女の実相を拝んでいたのだ。そうか、それで彼女はふと決心して治療用のマリファナを買いに行ったのだ。

 いかに彼女が失礼だろうと、誤解していようと、あたしは神の友達だから壊れようはない、ただただ尊い生命の実相を拝む、これは何とぴったりの言葉だろう。

 昔30年前もあたしはJBを拝んでいた、と思っていた。本当は悪相を拝んでいたのだ、改善するはずがなかった、修行が足らなかった。

 そしておまけに、あたしは勇気を出して、霊気をあんたから学ばせてとドーラに言った。そうすることで彼女に益もあるはずだった。そしてさらにセラピストへの自己申告書のドイツ語を見てくれるようにとも頼んだ。彼女がしっかりするように。

 そしてなお、自然科学雑誌を持って行った。人類と脳のついての最新情報だった。彼女が客観的になれるように。

 これが2019年末、12月15日である。実録。無心に拝む毎日にせねば。それ以外にない。意識など使うも無駄だ。