養老先生の「逆さメガネ」
整形外科の待合室においてあった「逆さメガネ」を何気なく手に取ったところ、存外に面白そうだったので気軽に買ってみた。
現代の世相を論じているのだが、我々の都市化の歴史、
つまり自然の不確定さを克服し「こうすればああなる」という理解できるものに環境を変えて行こう、
という人間の意思の歴史、について本当は論じられている。
どんどん変化して行き、計算通りに反応しない、自然そのものである子供の存在が、
都市化に適応した両親にとって、解決不能の問題となっている。
その背後には、我々の脳の働きからうまれてくる「意識」、つまり「自分という意識」が関わっている。
自分という個性が、自分の中に、つまり頭の中に最初から存在して、変化しないものとしてあるように現代の我々は思いがちだ。
しかし、個性は身体に既に、とっくに、紛れようもなく現れている。顔が一人一人違うように。
一方脳が行っているのは専ら共通化である。
言葉、文字、文化、社会の価値、学問、脳の生産するものは人類の共通性を基礎にしている。社会を営むために。
脳は外界からの入力と出力(身体への)を扱う器官であり、そこだけに不変の自己同一性を求めてもからっぽなだけである。
養老先生のオススメの結論は、知行一体、文武両道、
つまり脳先導による進化(メームの進化)の道において身体を、自然を忘れるな、ということらしい。
しかし不確定な自然を忘れないとして一体どうする。
素量子が不確定な存在だということからして、だからこそ絶対性を求める我々の性向もむべなるかな、ということか。
せめてできるだけたくさんのことを、これは自分への恩寵、自分は幸運を賜わった、と思って安心立命をはかる、以外にあるか。