やってしまった、海外移住!
ふと暇があるような気がして、トップページで「トランプ大統領が天皇陛下に会ったら」という見出しにふらふらと、老いたモンシロチョウのように飛んでみました。
浩宮徳仁さんが人間として天晴れな人物であるとは、じかに観察の機会を得た親友が確約したところなので、あたしはナショナリストでは全くありませんが、付け加えて雅子さんの心情にもシンパシーを感じていることくらいは、まあここに書いてもいいかなと思うものであります。
ちょっと演説口調になりました。その話はしかしここまでで、次に読んだ記事が本題となります。
老夫婦の一方が、亡くなる前に愛の詩を残した云々という話に、避けることのできないエンディング間近となった我がことに思いが波及してきました。
70年という年月のもろもろの芥がどっと押し寄せてくるとき、迷いと決断のはざまに立たされたあたしと夫のJBでありました。正確には、彼に迷いはなくあたしにのみでした。
JBは30年来の心不全持ち、両脚は象のように晴れ上がり紫色、唇にもチアノーゼ。まさに絶えず窒息寸前のように見えながらしかし、どこか生かされているのでした。
高齢の母親を前年失くし、息子たちは自立してあたしは用無しとなっていました。
JB曰く;30年我慢して住んでいたが地震と台風と火山があるから日本は嫌だ。療養費がかさみすぎる。
あたしおもへらく;本心は故国ドイツで死にたいということのはず。
あたし迷う:
ここを終の住処と思って暮らしてきたのに、全てを整理して親戚友人皆無のドイツへ30年ぶりに帰って暮らす? 実際問題として無理でしょ、まず住まいはどうする。
まず一度渡独して探すとしても、このJBの体で、このJBを連れて行ける?
あてが見つかったとして、引越し準備は誰がするの! あたし一人に決まっている。全ての関節が老化し、不整脈の薬を服用中の73歳のあたしに。
ところでその前に、彼の嫌味な性格にもううんざりしていたあたしには、そもそもこの先我慢できるかが問題だったのです。
現にその時点で夫婦仲は最悪、あたしが彼という異邦人を養っているという状態(経済的にという意味ではなく)で、それに対し一言の有難うがあるどころか、高飛車な物言いばかりされて苦悩は限界に達していました。
でも、ドイツで暮らした方があたしには楽になる点がありました。少なくともそう期待したのです。これまでと違い、JBが自分の手続きなどをするだろう、すべてについて、だって自分の故国なのだから。
2つ目には、あたしはドイツがやや好きでした、特に朝食のスタイルとか住まいとか。3つ目にはJBが亡くなった時にはドイツで処理する方が手っ取り早い。
しかしまた堂々巡りして、そもそもJBとさらに不定期間一緒に暮らすことが望ましくありませんでした。彼といたら全くの引きこもり夫婦なのです。どこで暮らしても彼は邪魔でした。したいことをしたかったのです。
ある時ついに勘忍袋の、、という状態になり、あたしは本気で決意しました。離婚です。勇気を振り絞って彼に宣言してへこたれませんでした。
しかし、一夜過ぎ目覚めた時、思いがけないことが起こりました。
あたしは恐怖と不安に打ちのめされていました。
別れることそのものが理由ではなく、その結果が!!
何もできなくなっている彼と今離婚すれば、それは彼を殺すのと同じだ、という確信に襲われたその恐怖でした。
罪の意識と誰かが表現したかも。殺人への恐怖。
決してそうしてはならない、それだけはしたらダメだ、それがあたしの突然の決意でした。決断でした。
余りに強い恐怖感からの強い決断だったのでそれ以後は微塵も迷いませんでした。
その後早速、あたしは策を模索しました。別れないままでこの状況を耐えやすくする、あたしが少し上座に座れるような方法を。
そしてその具体的な解決法をJBに申しわたしました、あたしはこれから妻ではなく介護人である。あたしの身分は実際はただの介護人、家政婦である、と。
そして実際、これから渡独の準備をして渡独して、環境を整え、また帰国して引っ越ししてのち再渡独、移住、という企画を了承、というより自ら立案企画実行したのです。
最後は故国で、とはあたしのせめてもの思いやりでした、敢えて言えば。
まあ、思いやりと言っても裏側には利己的な面もあったわけですが、もう一つ付け加えればあたしの終活活動の一環でもありました。
ぐちゃぐちゃと絡まった理由です。70年も生きているとゴミ芥のようなものが溜まっていてこんがらかっているものです。
決断の別の重要な要素なのですが、これはなかなか吐露しにくい事柄です。
終活といえば流行りの概念、わかりやすいのでこれに乗ってしまうことにしましょう。長い一筋の川の流れです。淡々と辿ってみます。
岩にぶつかり淵をさまよい、
絶えずうねり泡立ち、
引き込まれそうな渦から渦へ。。。
35歳まで順当に思い通りの生活と2人の自慢の息子あり。
JBに出会いふと目が眩んだ途端足をすくわれ、親権なしで離婚と再婚。
これまた自慢の息子誕生。難産体質?で、昔なら出産ごとに命を失っていたでしょう。
たちまちに馬脚をあらわしたJBのDVに耐えながら、父親譲りの宗教心を支えに許し続けること20年間のとき、
最悪の事態、長男の自死に見舞われ暗黒の日々となります。
その数年前からJB罹患。
70歳となり、母親を介護しながら父親に託されたように感じ始め、「嘘でも明るい死後」を探究する人に変身します。
謎解きの糸がスルスルと解けるように逢うべき人が登場し、読むべき本が眼前にあり、導かれて、聖霊の世界が開かれていきました。
母は比較的穏やかに父の元に旅立ち、あたしにはその後いつも母と共にある確信がありました。
こうして今思えば、早世の長男は見えない世界への道先案内人でありましたが、それのみならず、逝ったその日はあたしの父の生日であったのです。これを重視、時を超越した、同じ霊的使命を持つ二人であるはずだとみなし始めた時、ここが神慮の存在を信仰する契機となりました。
自ずと、次は夫JBを母のように立派に旅立たせることがあたしの使命となったわけです。
このような複合的な理由から、海外移住の決断は揺るがぬものとなり、誰もが信じられないというような強さと運の良さであたしは2018年4月から12月までを乗り切って、初志を貫徹し、JBをドイツ式治療の流れにのせることができました。
しかし、そこまでこぎつけた後、まさにここでJBの一層の醜さが現れました。
治療を受けサイボーグ化したのに結局は苦しさの進行が止まらない上に、腰痛というさらなる苦痛を得たJBはすべての責任があたしにあると思うようになり、これまで聞いたこともないほど口汚く罵るのでした。
これには、あたしも傷つきました。本当の憎悪をJBに感じるようになりました。
環境は整って揃ってきたのに、JBだけがあたしの人生のトゲとしてあたしを苦しめる、その構造が確定してきました。
どうする?! 土壇場です、二進も三進も行かない蟻地獄でした。
ふと、このあたしの感情、あるいはあたしのこんな見方をどう処理するかに問題が移っていきました。つまり、世間との接触ゼロのJBは世の人々には無いも同然の存在で、あたしの目にのみこの姿として存在しているのです。
あたしがこのようにJBを認識しているのです、この感覚器官とこの神経組織が。
ここまでが、あたしの決断の結果です、平成最後の頃までの。
もちろん、上記のような絶望状態に放っておかれるようなことはありません、我々の関係において、あたしと神との友情関係において。
アカシアの白い花房が香り、ナイチンゲールが夜もさえずるこの神韻馥郁たる樹々の、緑の光線に包まれて、老婆の無心の念仏が続くのでしょう。
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